このようなお悩みをこの記事では解説します。
わたしは大阪を中心に女性限定で自宅出張スタイルでパーソナルトレーニングを実施しますトレーナーのtakです。
パーソナルトレーナー歴21年。のべ5万人以上の女性のからだを見てきました。
あなたは体調を崩し、自宅療法の間に自分自身の生き方や生活スタイルを見直せたのですよね。
体調を崩して仕事を休むと決まったときは、おそらく不本意だったと思いますが、それがかえって食事の本質に気づける時間となりましたね。
あなたが出会った食養会を設立した石塚左玄は、明治の末期に食事を原点に戻そうと活躍した人物です。
体調を崩したあなたには絶対に知っておくと、これから先の人生を美しさと健康の両方が手に入る考え方です。
それでは、最後までこの記事を読んでもらえると石塚左玄が作った食養会が見え、あなた自身自分で考えた経験から健康を手に入れられます。
この記事を読んでわかること
- 玄米食のルーツが石塚左玄が立ち上げた食養学でわかり取り入れやすくなる
- 石塚左玄の食養学は健康長寿を追求する学問
- 栄養学を信じず、食養学を学び、食習慣に取り入れると体調が良くなる
食養学とは何か?伝統的な和食で健康長寿を追求する学問
食養学は、石塚左玄が明治後期に人々が摂取していた白米を中心にした現代食を見直すべきだと考えて、伝統的な和食で健康長寿を追求する学問です。
食養学をあなたに伝えたいとわたしが思ったのは、これまでのこのサイトの記事で書いてきていますが、白米から玄米に主食を戻し、高カロリー食をやめ、からだに合った日本古来の食事に戻すと体調がとても良くなるからです。
玄米がからだにいいというのは、最近では女性のからだへの意識の高まりによって、メディアで頻繁に発信されてますが、食事は人が生きるための基本であるし、日本人が歴史的に摂取してきた食文化を見ることで本質から理解でき、玄米食を受け入れやすくなるのです。
食養学は明治後期に作られた学問で、江戸時代から明治時代に時代のスタイルが大きくモデルチェンジされ、日本に西洋から入ってきた高カロリー食がありました。
明治維新は、国家を一気に西洋に合わせていくビジョンで時代を変えていこうとしたため、医学・医療はドイツの学問体系を取り、東洋医学的な日本古来から考え続けられていたものはすべて排除されてしまいます。
そのような流れをたちきるために立ち上げた石塚左玄の食養学。日本古来の江戸時代から貝原益軒に見られる食養生の観念を引き継いだ考え方です。
食養学と西洋栄養学の2つの流れができ、石塚左玄は玄米、菜食を重視する考え方で、西洋栄養学はやがてカロリー計算をしはじめ、ダイエット志向を発展させ、その流れは現状の筋トレ女子やタンパク質過剰摂取による病気の悪化へと悪の世界を作っていくのでした。
栄養学に関してはエール大学に留学した佐伯矩(ただす)が帰国後に栄養研究所をつくり、国立栄養研究所となりました。ここに食養生と西洋栄養学の二つの流れが生じましたが、前者は玄米・菜食を重視し、後者はたんぱく質や三大栄養素のバランスを重視した流れといえます。いわば前者はビタミン、ミネラルやその他機能性物質などミクロ成分の重視、後者はたんぱく質、糖質、脂質のマクロ成分の重視といえます。
参考文献:「玄米」のエビデンス|監修 渡邊 昌
食養会を設立した石塚左玄が提唱した本物の食事法
石塚左玄は江戸末期の1851年(嘉永4)に福井藩の石塚村で漢方医、石塚泰助の長男として生まれました。
左玄は5歳のときに腎炎にかかり、慢性腎炎によって晩年は闘病生活を余儀なくされましたが、食養生の考え方のおかげで、大病をしたにもかかわらず、59歳まで生きたのでした。
石塚左玄の経歴
- 1851年(嘉永4):福井藩に生まれる
- 明治元年(左玄18歳):福井藩医学校に勤務、蘭学で解剖学、理化学、動植物学をまなぶ
- 明治4年:上京
- 明治5年:東京大学南校科学局に雇われる。半年後に医師と薬剤師の資格を取得。文部省医務局に雇われる
- 明治7年:陸軍の軍医試補
- 明治16年(1876年):「検尿必携」「鑑薬精義」
- 明治20年(1880年):「飲水要論」
- 明治24年(1894年):「飲食品化学的塩類論」
- 明治26年(1896年):「化学的食物塩類篇」
- 明治27年(1897年):薬学会誌に「人類は穀物動物なり」「飲食物化学塩類論」「飲食物の加里塩は酸素吸収の媒介者なり」を発表
- 明治29年(1899年):陸軍少将となり、陸軍薬剤間に任命→日清戦争の従軍中に幼少期からかかっていた慢性腎炎が悪化
石塚左玄は自然食の玄米を復活させた西洋からの栄養学に異論を唱えた
現代では常識のように話されてるカロリーなどの栄養素の話は、明治時代後期に伝わったドイツ流の栄養生理学でした。
前述しましたが、明治政府は国家を西洋化する計画に伝統的な和食から洋食に変えようと取り組みました。
このときのドイツの栄養生理学は三大栄養素が主となるこれら3つの栄養素の比率を定めていたのです。
この比率は今でも生き残っており、明治時代を引き継いだ観念だといえます。
タンパク質を中心に考えられた三大栄養素の比率:P:F:C
タンパク質15%
脂質25%
糖質60%
ドイツ流の栄養生理学に待ったをかけたのが石塚左玄です。
栄養生理学を石塚左玄は調べ、栄養学にかかわる研究者は獣医がおおく、家畜を太らせることに研究の方向性を作っていました。高カロリー食にするための施策でした。
そこで石塚左玄は日本古来の食養生に原点をもとめ、三大栄養素ではなく、食物に含まれる化学成分のうちでも無機塩類に注目し、その中でもナトリウムとカリウム比に着目し、これが東洋思想から伝わってきていた陰と陽の一対となっているとする性質が食物にあるとまとめました。
石塚左玄がまとめた食養学は食物を陰と陽の対照性があるとする東洋思想
食物の含まれる化学成分を陰と陽にし、カリウムとナトリウムにわけ、これらを夫婦アルカリとよびました。
食物中の飽気(あくけ)をカリ塩と呼び、塩気をナイロン塩と呼んでこの二者をあわせて夫婦アルカリと呼んだのです。カリ、ナトロンはドイツ語であり、ラテン語のカリウム、ナトリウムに相当します。塩をつけているのはカリウム化合物、ナトリウム化合物という意味です。
参考文献:「玄米」のエビデンス|監修 渡邊 昌
すべての食物のカリウムとナトリウムを石塚左玄は徹底的に調べました。
食物中のナトリウム1に対して、カリの割合を調べていったのです。
ドイツ流の栄養生理学が伝えるのは、三大栄養素が食物中にどれだけ入っているかで、卵ならタンパク質の食物といいます。
陰と陽からわけた食物の見方では、ナトリウムとカリウムの比率なので、鶏卵(卵)と昆布はタンパク質の量は全然違いますが、陰と陽のバランスでは人の体内では同じ作用を起こす食物となります。
明治31年には「通俗食物養生法ー食養体心論」を発表。明治40年には石塚左玄を中心に「食養会」が発足し、「食養雑誌」が創刊。左玄はこの雑誌によって食養を普及させようとし、欧米の栄養学に心酔する医師が多いなかで、左玄は東洋医学とその伝統的な生活、衛生法を新時代の化学の論理で基礎付け「素問(そもん)」がいう「いまだ病まざるに治す」とされる最高段階の医学を目指した。
「素問」とは、中国最古に書かれた「黄帝内経素問」にある風土別の食養論。
中国の東西南北、中央の5地帯の風土と食習慣、そこで関連するかかりやすい病気と、それに対する医術(いわゆる医学、医療)が論じられています。
左玄がまとめた食養論はあなたが生きている環境にはほぼ見なくなり、聞かなくなっていますので、逆に本質的すぎるので特殊な価値観に聞こえてきます。
わたしも10年前に東洋思想から自分のパーソナルトレーニングに取り組んだ時期があったんですが、現代医学に染まってるお客さまを説得するには難しいなと思って、西洋医学に切り替えました。
それでも、食物への関心がお客さまを女性限定にしているからというのもあって、女性は本質的な食物に興味があることがわかり、いままた東洋思想を調べなおしています。
東方は海に面し、魚がとれ、風土に塩気が多く、魚は人体内に熱気を生じ、塩をとりすぎると血が粘り、顔色は黒く、はれものができやすい。西方は砂漠地帯で獣肉を常食し、病気は主に体内の臓腑におこり、北方は高原地帯で乳製品を常食し、臓腑が冷える、と論じられています。
参考文献:「玄米」のエビデンス|監修 渡邊 昌
左玄のあとを引き継ぎマクロビオティックの考え方を作った桜沢如一も尊敬
左玄の食養学を参考に、マクロビオティックを創始者である桜沢如一は幼い頃から病弱で18歳のときに肺と腸を結核に侵されましたが、命落とさずにすみました。
桜沢が左玄の残された資料のすみずみまで調べたときに、ナトリウムとカリウムの無機塩にどうして関心をもてたのかはまったくわからなかったといいます。
おそらく、貝原益軒や中国最古の「黄帝内経素問」、他には中国古典である五経四書(論語、老子、詩経など)を熟読し、深い知識が左玄にはあったからだと推測できます。
なぜなら、左玄の時代、国家全体がヨーロッパ文明に一辺倒の時代だったからです。
西洋的な概念がコンパクトな印象を与え、感覚的であった東洋思想よりはわかりやすく感じるものです。
やはり、左玄の人間力のすごさと未来への想像図の壮大さと現実にたいする問題意識の持ちかたが優れていたのだと思えます。
桜沢は、左玄へ感銘した気持ちを次のように言葉を残しています。
「彼は明治年間において最も徹底的に非日本精神に対抗し、最も壮烈な闘いを戦い、かつ最も悲惨な最期を遂げた唯一の精神的戦士である。彼は東洋独自の幽玄なる哲学を西洋流科学用語をもって解説した一人者である。
参考文献:「玄米」のエビデンス|監修 渡邊 昌
石塚左玄の食養学の考え方
左玄の唱えた食養は後世の日本綜合医学会の流れをくむ沼田勇によって、5つに要約しています。
- 食物至上論
- 人類穀物動物論
- 身土不二論
- 一物全体論
- 陰陽調和論
食物至上論
食物が生命にかわり、健康も病気も食物が決める考え方が、食物至上論です。
西洋医学では人々の病気が増え、そこからさまざまな医療機器を使い、病気の原因を構造や機能から追求する学問を病理学といいます。
そのおかげで、病気が特定してからの病気への治療法を絞ることができ、病気治癒率も高まっていますが、そもそもの問題意識はそこに入っていません。
食物が西洋流に変わったために、それまでに日本には見たことのない西洋由来の病気が増えましたが、そこは西洋医学では語られていません。
病気の原因は、食物からきているのです。
人類穀物動物論
人間は、肉食でも草食でもなく穀物食であると考えるのが人類穀物動物論。
西洋栄養学は三大栄養素が食物の主だと理解していますが、穀物を糖質とよび、筋肉量を増やすのが美的だとした風潮があとおしし、タンパク質が含まれる肉食が良い食物を考えられてしまっています。
しかし、けっしてそうではなく、人は肉食でくくられるのではなく、もともとは穀物を食べて生きる動物なのです。
身土不二論
その土地でとれるものを旬を守って食べることを身土不二論といいます。
この現象はお近くのスーパーの野菜売り場に行くとわかりますが、だいたい産地は遠い地域ばかりです。
わたしは大阪に住んでいますが、スーパーに行くと大阪や奈良のお野菜はあまりなく、九州や関東のものが多く並んでいます。
これは大型スーパーが大量生産させ、供給を安定させるために広大な土地をもつ農家を契約をしているのです。
これは消費者の環境適応されているので、いつ行ってもお野菜が手に入らないとストレスとなってしまいます。
それを満たすからスーパーにお客さんがそこに買い物に行き、収益化できるわけですので、すべてを否定できませんが、その土地で取れるものを旬を守って食べるのが、もっともからだのためになります。
一物全体論
食物は皮などをむかずその全体を食べるのが一物全体論。
陰陽調和論
陰(カリウム)と陽(ナトリウム)の調和が取れるように食物を選択するのが、陰陽調和論です。
まとめ:栄養学は信じるな!玄米と一汁一菜で健康長寿になれる
食養会を設立した石塚左玄を簡単に見ていきました。
明治の末期にすでに白米を玄米を主食にしようとする運動が石塚左玄が作った食養会で提唱されていました。
明治の末期の白米は今ほどモチモチの食感ではなく、かなり芯が白米の中にあったそうです。
今のお米ほど美味しい食物とはいえないとはいっても、白米は玄米の胚芽の栄養を精米しているので、稲ほんらいのミネラルやビタミン、食物繊維をうしなっています。
明治の末期に石塚左玄は玄米食を唱えていたというのが驚きですよね。
石塚左玄が食事を本質の戻そうと努力したにもかかわらず、そのまま玄米は主流とはならず白米を選択する人ばかりでした。
でも、この記事でも何度も伝えてきましたが、玄米を食べるとホルモンバランスが整い、血液の流れも良くなり、脳内アミン系のセロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンの分泌が促されるのが玄米を研究することで分かっています。
石塚左玄が設立した食養会を今の時代からでも知ると、いかにわたしたちの食事が西洋の高カロリー食に侵されているかがわかります。
玄米を食べ、食養会に触れ、食事の本質を知ってもらえると、健康長寿を得ることができます。
玄米を主食にし、あとは一汁一菜であなたが生きるために十分な栄養素を不足せず取れるのです。
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この記事のライター
感覚で身体を変化させるスキルを持つパーソナルトレーナーtak
パーソナルトレーナー歴;21年
運動しないで美しくなれる方法を研究
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運動しなくても美しさが保てるように、皮膚接触で脳を修正し、免疫、循環から変化させるパーソナルトレーニングを実践。
趣味;読書(哲学書)街をウォーキング、温泉に入る
あなたに出会える日を楽しみにしています。